競馬のレースにおける落馬シーンは
見ているファンにとっても
非常に辛い気持ちになるものですが、
関係者の馬主や調教師・騎手にとって
その度合いがさらに強いものになるのは
間違いないでしょう。
さらに落馬による馬体へのダメージが大きく、
治療の見込みがないと判断された場合は、
馬を苦しませないために
安楽死処分がとられることがあります。
今回は実際に落馬によって
安楽死処分が取られた有名な馬の
エピソードなどを踏まえながら、
『競走馬の死』といったものに対して
今一度深く考えてみたいと思います。
競馬で落馬すると安楽死させる理由
まず最初に結論から言ってしまうと、
競馬で落馬した馬を安楽死させる理由の
一番大きいものは
『競走馬は4本の脚でいないと生きられない』
といった理由です。
レース中に落馬事故があっても
脚を骨折していなければ
まだ助かる見込みは十分にありますが、
調教と違って全力のスピードで走る
レース中の落馬による骨折は
基本的に重度の症状であることが多く、
それに比例して助かる見込みも
低くなってしまいます。
脚を1本でも骨折してしまうと、
その脚を庇って他の3本の脚に
負担が掛かるようになり、
その結果残った3本の脚が
『蹄葉炎』という死の病に
侵されてしまいます。
蹄葉炎というのは簡単に言うと
『蹄の内部が壊死してくる病気』
のことで、
これを発症すると競走馬は
自らの力で立てなくなってしまいます。
そうなると馬房の中で寝たきりとなって、
今度はその地面に接している皮膚が
壊死するといった合併症を
引き起こしてしまい、
その結果として衰弱死やショック死
といった症状に繋がっていく、
となるわけですね。
近年は医療の技術も進歩していますが、
それでも重度の骨折で治療の見込みがない
と判断された場合は
『これ以上馬に苦しい思いをさせないで欲しい』
といった関係者の思いから
安楽死が行われることが多く、
競走馬というのは
常にこういったリスクと隣り合わせで
レースを走っているといった事実は、
我々競馬ファンとしても
最低限知っておくべき知識の一つ
かもしれませんね。
競馬で落馬した伝説になった馬たち
過去の競馬史の中で、
大きなレースでの落馬事故で
命を落とした馬は数多くいますが、
その中でも競馬ファンの注目度の高い
GⅠレースで落馬して命を落とした馬は
他の馬と比べて伝説となりやすく、
後に長く語り継がれる傾向があります。
今回はそういった悲しい事故で
安楽死処分となってしまった馬の中でも、
特に注目度の高い6頭の馬に注目して
それぞれを詳しく解説していきたいと思います。
『キーストン』の感動秘話
自分が生まれる前の時代ではありますが、
競馬ファンであれば
誰もが一度は聞いたことがある感動秘話が
このキーストンと山本正司騎手との
『絆』の物語ではないでしょうか。
『アメリカの超特急』
という意味を込めて付けられた名前からも、
関係者がキーストンに
大きな期待をかけていたのは間違いなく、
その期待に応えるように
山本騎手と共に成長したキーストンは
皐月賞の大敗を糧に日本ダービーを制して
世代の頂点に立ちました。
古馬となり大きく成長したキーストンは、
4連勝の勢いそのままに迎えた
1967年の阪神大賞典に出走しましたが、
そのレースで悲劇が発生してしまいました。
山本騎手が手綱を持ったまま
直線を迎えたキーストンでしたが、
左前脚に故障を発生して
前のめりにバランスを崩して
山本騎手が馬場に投げ出されると、
キーストンも転倒してファンからは
大きな悲鳴が上がりました。
「左第一関節完全脱臼」
という通常では歩けないほどの重傷
を負ったキーストンでしたが、
ここで見せた行動は多くの競馬ファンに
語り継がれるほど感動的なものでした。
馬場に倒れて意識を失った
山本騎手のところまで3本の脚で
必死に寄っていったキーストンは
山本騎手の側に心配そうに寄り添い、
それに気づいて意識を取り戻した山本騎手が
痛みに耐えて自分の側に寄ってきた
キーストンの顔を抱いた場面は、
多くの競馬ファンの心を打ち
多くの関係者が涙を流しました。
今は外国人騎手への乗り変わりが
頻繁に行われており、
過去と比べて『名コンビ』が
非常に少なくなっていますが、
『馬』と『騎手』が心で繋がっているのも
競馬の大きな魅力の一つであることから、
こういった信頼関係が生む感動的な場面を
もっと見ていきたいものですね。
優しき馬『シゲルスダチ』
シゲルスダチを語る際に
切っても切り離せないのは、
2015年に40歳の若さでこの世を去った
『後藤浩輝騎手』の存在があります。
ここではまず先に
後藤騎手の説明をさせてもらうことを
お許しください。
2012年のNHKマイルCで
後藤騎手と出走したシゲルスダチは、
直線でマウントシャスタの斜行の
影響を受けて転倒し落馬し、
後藤騎手は「頸椎骨折」の大怪我を負って
4か月後の9月に一旦は復帰したものの、
復帰当日のレースで再び落馬すると
「第一・第二頸椎骨折」「頭蓋骨亀裂骨折」
と診断され、
長期休養に追い込まれました。
約1年後の2013年10月に復帰を果たすと、
エスポワールシチーで重賞を勝利するなど
再び順調な活躍を見せていたものの、
翌2014年4月に再び落馬によって重症を負い、
2015年2月21日のレース中に落馬して
その1週間後である2月27日に
自宅で首を吊って自殺しているのが発見され、
その短い生涯を終えることとなりました。
話を元に戻したいと思います。
NHKマイルCのレース中に
落馬したシゲルスダチですが、
そこから立ち上がると
他の馬とは違う珍しい行動を見せました。
通常落馬しても大怪我をしてない馬は
起き上がってレースに参加しようとしますが、
シゲルスダチは起き上がって後戻りすると
蹲って動けない後藤騎手の場所まで戻って行き、
心配そうにその周囲をグルグルと回りました。
出典:https://ameblo.jp/momokohime7
そして、JRAの救護職員が
後藤騎手の周りに集まってくると、
安心したかのようにコース上で横滑りをして
ファンを安心させるといった行動を
見せました。
この立ち振る舞いだけ見ても、
シゲルスダチがどれだけ心優しい馬
であるかというのが
伝わるのではないでしょうか。
そのシゲルスダチと後藤騎手ですが、
1年後の奥多摩Sでコンビを組んだ際は
レース前にもかかわらず
多くのファンから温かい拍手が
飛んでいました。
しかし、奇しくもその1年後
同じ奥多摩Sに出走したシゲルスダチは
ゴール直前に故障を発生し、
重度の脱臼を発症した結果安楽死処分が取られ
帰らぬ馬となってしまいました。
その時、ラジオ解説者として
シゲルスダチのレースを見ていた後藤騎手は
いったい何を思ったのでしょうか?
今となっては天国で
再びシゲルスダチと後藤騎手が再び出会い
一緒に走っていることを
願わずにはいられないですね。
流星の貴公子と呼ばれた『テンポイント』
前年の有馬記念で終生のライバルであった
トウショウボーイとのマッチレースを制し、
日本最強馬となったテンポイントが
海外遠征の壮行レースとして出走したのが
1978年の日経新春杯でした。
このレースで今では考えられない
66.5キロという重いハンデを背負わされた
テンポイントですが、
レース中は斤量を苦にする素振りは見せず、
道中競りかけられながらも
軽快に先頭を走っていました。
しかし、4コーナーで左後脚に故障を発生して
競争を中止することになり、
その診断は折れた骨が皮膚を破って突き出す
「開放骨折」という極めて重いもので、
今なら即安楽死の処分がされる程の重症でした。
多くのファンからの
『テンポイントを助けてほしい!』
といった声から一旦は治療が行われたものの、
結果的に蹄葉炎を発症した上に
骨折箇所がさらに悪化したこともあって、
事故から約2か月後の1978年3月5日に
テンポイントは自然死という形で
静かに息を引き取りました。
この『テンポイントの悲劇』によって
ハンデ戦の斤量負担が見直され、
さらには冬季の競馬開催の是非や
安楽死に対する考え方にまで
様々な議論が行われました。
結果として
壮絶な死を遂げたテンポイントですが、
その存在は今もなお競馬界に大きな影響を与え
同馬がいたからこそ今の日本競馬がある
と言っても問題ないのではないでしょうか。
悲運の名馬『サクラスターオー』
生まれてから間もなく母馬を亡くしたことで
育成期間中は乳母馬に育てられ、
皐月賞を勝利したものの
故障による日本ダービーの回避、
さらに皐月賞以来のぶっつけで出走となった
菊花賞を9番人気で勝利するなど、
同馬の競走生活自体が
波乱万丈なものではありましたが、
その生涯の閉じ方もまた悲劇的な結果
となってしまいました。
元々脚元がそれほど強くない馬
であったことから、
菊花賞勝利後は翌年の天皇賞・春を目指して
休養入りする予定でしたが、
多くのファンやJRAの出走を希望する強い声で
有馬記念に出走することになり、
レースでは当然の如く1番人気に支持されました。
しかし、2週目4コーナー手前で
故障を発生したサクラスターオーは
レースを走り切ることなく競争を中止し、
その症状は
「左前脚繋靭帯断裂」に加えて
「第一指関節脱臼」という
極めて重いものとなりました。
本来であればすぐに安楽死処分が
下されるほどの重症にもかかわらず、
テンポイントと同じく助命を願う
多くのファンの声に後押しされて
懸命の治療が続けられました。
しかし、治療の甲斐むなしく
故障発生から約5か月後の1988年5月12日に
別の脚の骨折という合併症もあって
安楽死処分が取られ、
その短い生涯を閉じることになりました。
ジェットコースターのような
起伏の多い競走生活に加えて、
生まれた直後に母を亡くし
自らもレース中の事故によって
命を落としたことから、
非常に『悲劇性』のイメージが強い
サクラスターオーという競走馬ですが、
もし無事に走り続けていれば
どれだけの成績を残していたのか、
『タラレバ』ではありますが
今でもそう思わずにはいられない
名馬の1頭だと思います。
刺客の異名を取った『ライスシャワー』
菊花賞では無敗の3冠を目の前にした
ミホノブルボンを差し切って初GⅠ制覇を飾り
『悪役(ヒール)』のイメージを強くすると、
翌年の天皇賞・春では
前人未到の天皇賞・春3連覇を目指した
メジロマックイーンを寄せ付けずに勝利して、
高い長距離適性と共に『刺客』の異名を
欲しいままにしていました。
しかし、そこから長いスランプに陥って
2年間勝てない競馬が続きましたが、
2年振りの出走となった天皇賞・春では
2週目3コーナーから一気に仕掛けるという
同馬のスタミナを最大限に活かした
『奇襲戦法』で積極的な競馬を見せると、
最後は一杯になりながらも
2着ステージチャンプをハナ差振り切って
復活の勝利を飾りました。
本来であれば放牧に出されて
秋のGⅠ戦線に備える予定でしたが、
ファン投票で1位に支持されたことに加えて
阪神淡路大震災の影響で宝塚記念が
得意とする京都で行われることもあり、
宝塚記念への出走が決まりました。
距離が1000m短縮されたこともあって、
後方のインを進んでいたライスシャワーは、
3コーナーで故障を発生すると
前のめりになって一旦は体勢を
立て直そうとしましたが、
そのままコース上に転倒して
競争を中止してしまいました。
複数の骨折を同時に発症したこともあって
馬運車で診療所まで運ぶことができず、
その場で安楽死処分が取られるという
非業の死を遂げることになりました。
京都競馬場に愛された馬でありながら、
結果としてその京都競馬場で競走生活に
終止符を打ったライスシャワーでしたが、
もし『タラレバ』が許されるのであれば
記録を『阻止』する側であった同馬が
天皇賞・春3勝の記録に『挑戦』する姿を
見てみたかったのが正直な気持ちですね。
大逃げの『サイレンススズカ』
3歳時は能力だけで走っており、
気性面も若かったサイレンススズカでしたが、
年末の香港カップ(当時GⅡ)から乗り替わった
武豊騎手にリラックスして走る教育を施され、
道中息を入れながら直線も伸びるという
『逃げて差す』競馬が完成したのが
4歳秋の毎日王冠なのは間違いないでしょう。
共に休み明けだったとはいえ、
3歳世代において超GⅠ級であった
グラスワンダーとエルコンドルパサー
の2頭を全く寄せ付けずに完勝した
その完成された走りは、
他馬に全く付け入るスキを与えない
まさに完璧なものでした。
その次走に出走した天皇賞・秋では、
叩き2戦目に加えて得意とする
左回りの2000mであったことに加えて、
逃げ馬にとっては最高とも言える
最内枠を引いたこともあって、
レース前から
『どの馬が勝つか』ではなく
『サイレンススズカが何馬身
突き放して勝つか』
といった点のみに注目されていました。
レース前の共同記者会見で武豊騎手が
『オーバーペースで行く』
と宣言していた通り、
1000m通過が57.4の猛烈なハイペースで
大逃げを打ったサイレンススズカでしたが、
4コーナーで故障を発生して
外ラチまで導いた武豊騎手が下馬すると、
左前脚の「手根骨粉砕骨折」を発症し、
そのままゴールを迎えることなく
現役生活と共にその生涯も閉じる
悲しい結果となってしまいました。
後日発覚した事実ではありますが、
本来であれば故障を発生した時点で
転倒してもおかしくないくらいの
重度な骨折にもかかわらず、
馬自身が踏ん張って落馬しなかったことで
『武豊騎手を守った』のは、
これまでのレースで
速く走ることの楽しさを教えてくれた
武豊騎手に対するサイレンススズカからの
最後の『お礼』だったのではないかと
今でも思っています。
もし最後まで走り切っていれば
もし無事に種牡馬入りしていれば
と様々な『もし』が許され、
我々に限りなく大きな可能性を与えてくれた
サイレンススズカは今でも、
そしてこれからも自分の中での『最強馬』
として君臨し続ける1頭です。
まとめ
これまで多くの馬の
落馬や競争中止の場面を見てきましたが、
競走馬としても種牡馬としても
大きな可能性を秘めた馬の安楽死は、
やはり一競馬ファンとしても
非常に辛い気持ちになるのは
理解してもらえたのではないでしょうか。
GⅠを勝利するような馬でも
未勝利戦を走っているような馬でも、
出走する全ての馬が無事に完走
できるのを願いながらレースを見ることが
競馬ファンとしてできる唯一の応援であり、
これから先も競馬を楽しんでいく上で
決して忘れてはいけないことだと思います。