競馬界では1990年代頃から
西高東低と言われる
関西馬が優勢の時代が
長く続いています。
その前の関東馬が
優勢だった時代に
関西の期待を一身に背負い
強い関東のライバルたちと
鎬を削った美しい馬がいました。
その名はテンポイント。
栗毛の馬体と額の模様から
「流星の貴公子」と呼ばれ
満票で年度代表馬に輝いた名馬です。
しかし、その直後に
悲劇的な最期を遂げたことから
悲運の名馬として語られることも
多くあります。
名勝負で人々を魅了し、
その死に人々が涙した
名馬テンポイントについて、
今回はご紹介します。
テンポイントの成績/戦績は?
出展:http://kyo-souan.com/index_qhm.php?
テンポイントの成績を見て行きましょう。
(現在より1つ多く数える
当時の年齢で表記します)
3歳8月のデビュー戦
11月の2戦目を連勝した
テンポイントは暮れの
関西王者決定戦の
阪神3歳ステークスに出走。
同じ日の古馬OP特別よりも
速いタイムで7馬身差をつけて完勝。
翌年のクラシックに向けて
関西の総大将という評価を受けます。
4歳になってからの2レースも優勝し
1番人気で迎えた皐月賞でしたが、
ストライキの影響で調整に失敗。
終生のライバルとなる
トウショウボーイのスピードの前に
見せ場なく2着に敗れ、デビューからの
連勝が途絶えてしまいました。
続いて大目標だった日本ダービーに
出走しますが、ピークを超えていた
テンポイントの体調は最悪で7着に敗退。
さらに軽度の骨折も判明する
残念に結果に終わります。
骨折の影響で調整に遅れが
生じたものの、ひと叩きして、
三冠最終戦の菊花賞へ臨んだテンポイント。
直線でトウショウボーイを交わし
栄冠をつかんだかに思えましたが、
内から伸びた伏兵グリーングラスに敗れ
クラシックは制覇できませんでした。
続いて有馬記念に出走しますが、
今度はトウショウボーイを
捕え切れず2着。
古馬となっての雪辱を
期することになります。
古馬となり2連勝を飾り
春の天皇賞に挑んだテンポイントは
4コーナー先頭から押し切って優勝。
トウショウボーイは不在でしたが
念願の八大競走制覇を果たしました。
続く、宝塚記念では復帰した
トウショウボーイの前に
またしても2着に敗れ、
雪辱は秋へと持ち越しになります。
ハードな調教が積んだ夏を経て
腰の甘さが消え、筋骨隆々のたくましい
身体を手に入れたテンポイントは
2連勝で年末の有馬記念に臨みます。
引退を表明していたライバルとの
6度目にして最後の決戦となる
このレースで競馬史に残る名勝負の末
4分の3馬身差をつけて勝利。
遂にトウショウボーイを破った
テンポイントは海外遠征の
壮行レースとして年明けの
地元・関西での
日経新春杯に出走します。
しかし、66.5kgのハンデを背負った
テンポイントはゴールに
たどり着くことが出来ないまま
ターフを去ることになりました。
通算成績18戦11勝 [11-4-1-2]。
体調不良のダービーと
最後の日経新春杯以外は
3着を外さない安定感のある
戦績を残しました。
テンポイントの獲得賞金はいくら?
テンポイントは3億2841万円の
賞金を獲得しています。
出走レースが多かったこともありますが
これはライバルのトウショウボーイよりも
多いものでした。
テンポイントのレース動画
流星の貴公子・テンポイントの
レースを動画でご覧いただきましょう。
今回は、
- 有馬記念
- 日経新春杯
をご紹介します。
1.有馬記念
まずは競馬史に残る名勝負として
語り継がれている
1977年の有馬記念です。
当初は、5歳の秋を迎えて
パワーアップしたテンポイント、
このレースを最後に引退する
天馬トウショウボーイ、
2頭の最後のライバル対決は
類を見ない展開となります。
8頭立てとなり、お互いに
相手を絞った2頭。
スタートからトウショウボーイが
逃げに出ると、テンポイントが交わす
さらにトウショウボーイが前に出て
それをテンポイントがまた抜き返す。
文字通りのマッチレースを
繰り広げて行きます。
後続を引き離す2頭は
最後の直線に入っても譲らず
叩き合いになり
3分の4馬身だけ先にゴールした
テンポイントが最後にして
初めてライバルを負かしました。
「レースに負けても良いから
相手を打ち負かすことしか考えていなかった」
2頭の騎手ともに同じ気持ちで
騎乗していたからこその名勝負でした。
2.日経新春杯
有馬記念でトウショウボーイを下し
史上2頭目の満票で年度代表馬に
選出されたテンポイント。
関西を代表する馬だったという事で
ファンの声に応え、海外遠征前の
壮行レースとして日経新春杯に出走します。
ハンデ戦のこのレースで
66.5kgという斤量を背負った
テンポイントは好スタートから
1~2番手を走る、有馬記念と
同じようなレースを見せていきます。
しかし、勝負所の4コーナーに
差し掛かった辺りで、
テンポイントは急失速。
重度の骨折を発症し
ゴールにたどり着くことは
できませんでした。
(動画は故障シーンが
含まれていますので
閲覧の際は、ご注意ください)
テンポイントの悲劇って?
上記の日経新春杯での
故障は「テンポイントの悲劇」
と言われています。
美しい馬体とトウショウボーイに
何度も跳ね返される姿が
判官贔屓の日本人の気性に合ったのか
ファンが多かったテンポイント。
日経新春杯で負ったケガは
通常ならば安楽死の処置が
とられるはずの重症でした。
しかし、故障後には助命の嘆願が相次ぎ
関係者は手術を決断します。
手術は成功したかに思えましたが、
しばらくして、骨折した馬にとっては
致命傷とも言える蹄葉炎を発症。
約1カ月半の闘病の末
テンポイントはこの世を去りました。
闘病中にファンから届けられた
折り鶴は5万羽に上ったほか、
“テンポイント死す”の知らせは
ニュース番組でトップで
報じられるほど、大きく扱われました。
テンポイントの血統は?
テンポイントは父コントライト
桜花賞馬ワカクモの間に生まれ
全弟のキングスポイントは
障害の名馬として活躍しています。
テンポイント誕生にまつわる
エピソードとして、祖母クモワカ
に関する事件があります。
感染すると治療法がなく
殺処分するしかない伝貧と
診察されたクモワカ。
しかし、体調が回復していく
クモワカを見た関係者は
伝貧ではないと判断し
手を尽くし北海道の牧場へ
移送させ、殺処分を免れ
繁殖生活を送ることになりました。
その後、生まれたクモワカの
子供の血統登録を巡って
裁判が行われる事態に発展しますが
伝貧が誤診だったと判断され
子供たちは無事に血統登録を果たし
テンポイントの誕生に繋がりました。
テンポイントの性格は?
トウショウボーイとの
抜きつ抜かれつの攻防で
闘志を見せたテンポイントですが、
普段は大人しい性格の
馬だったようです。
幼少期から人に従順で
利口な馬だったとも言います。
無駄なことをしないで
指示をしっかり聞ける馬だったことが
安定した成績に繋がったと
考えることができるでしょう。
テンポイントの脚質は?
スタートが得意だった
テンポイントは好位につけて
先行するタイプの脚質でした。
しかし、完歩が大きいので
スピードに乗るまでに
時間がかかる面を持っており、
勝負所でスピードがすぐに
ギアが入れ替わらないので
3コーナーから4コーナーで
モタモタすることもありました。
好スタートから絶好位につけるも
3~4コーナーで後退、
直線でスピードに乗って追い上げる
というのがテンポイントの
レーススタイルだったと言えます。
テンポイントの騎乗騎手って誰?
テンポイントの主戦を務めたのは
鹿戸明騎手。自身がケガをしていた
日本ダービー以外の17戦で
手綱を取りました。
それまで重賞級のレースで
数勝した程度だった鹿戸騎手が
デビューして10年が経った頃に
出会ったのがテンポイントでした。
テンポイントとのコンビで
八大競走で2勝を挙げ
全国区の知名度を獲得しました。
その後は調教師に転向し、
重賞ホースも手がけました。
テンポイントの馬主は?
テンポイントを所有したのは
高田久成さん。
桃、黄銭形散、白袖の勝負服で
テンポイントの弟・キングスポイントや
天皇賞を勝った牝馬プリテイキャスト、
36年ぶりの日本馬による
海外重賞制覇を果たした
フジヤマケンザンの父となる
ラッキーキャストなどの馬主として
多くの馬を所有しました。
当時の新聞の文字のサイズが8ポイント
だったことから、それより大きな文字で
取り上げられる馬になって欲しいと
オーナーが願いを込めたのが
テンポイントの名前の由来となりました。
テンポイントの産駒は?
悲劇によりこの世を去った
テンポイントは産駒を
遺すことができませんでした。
しかし、近親には
桜花賞馬ダイアナソロンや
ワカオライデン、フジヤマケンザン
といった重賞ホースがいます。
もし、テンポイントが無事に
種牡馬入りしていたとしたら、
美しい馬体と優秀な母系から
人気の種牡馬となっていたかもしれません。
まとめ
今回は悲運の名馬
流星の貴公子テンポイントを
ご紹介しました。
テンポイントの事故により
ハンデ戦での斤量が見直されたり、
管理した小川調教師の
声により栗東トレセンに
坂路が作られ、東高西低を
覆すきっかけになったとも
言われています。
競馬シーンに大きな
影響を及ぼした貴公子の存在を
心の片隅に留めておいてください。